ゆるりーん

低空飛行の日々です。

「おもいでのケータイ」というか、「ケータイの思い出」というか。

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特別お題「おもいでのケータイ」

自己紹介を兼ねて。
私と言う人間ができたのには家族の影響は大きかった。


私の小学生時代、携帯を持っている子供は珍しかった。
早くて中学生。
高校になって初めて携帯を買ってもらう人も多かった。

そんな時代。

私は小学校の時から携帯電話を持っていた。

自分から希望して買ってもらったわけではなく、
どちらかというと、周りが持っていないから要らない、
持ちたくないと突っぱねたぐらいだ。

なぜ、親はわたしにケータイを持たせたのか。

それは、弟と散歩をするときの緊急連絡用のためだった。

私には3歳年のはなれた弟がおり、目が見えないながらも散歩が好きだった。

私はよく付き添った。というか、散歩に連れて行った。手をつないで歩くだけだけど。
散歩中は何を話していたんだったっけ。

弟は大変な気分屋であった。
公園の遊具でお気に入りのものがあって、それで遊びだすとキリがなかった。

何とかうまく丸め込めればいいが、
失敗すると全く言うことを聞いてくれない。

家に帰る時間になっても、周りが暗くなっても、
まだまだ遊びたいときは頑として言うことをきかない。

そんなときはほとほと困って、
「こんなに言ってるのに!」って怒りながら親に電話して、迎えに来てもらった。

親が来たからと言って、親の言うことを聞くかと言われれば、どうだったかな。
言うこと聞かなくてもおんぶして帰れるので、最終手段として親を呼んでいた。
弟がすんなりと家に帰って私は少し惨めな気持ちになることもある。

さいわい、不測の事態で親を呼んだ事はなかったように思う。


私と弟は歳が近いこともあり、本気でむかついたり、つかみ合いの喧嘩もよくした。

弟が目が見えないからって、わたしが姉だからって、容赦はしなかった。

弟からけしかけられた時だって、よく親からはお姉ちゃんなんだからと言われたが、あれには全く納得がいかなかった!


それでも私が高校生になると、弟との歳の差は変わらないのに、
知能面では年の差以上に差が開いていた。

わたしはまるで3歳ぐらいの子供を相手にしているようだった。
知恵遅れというのは言い得て妙だと思った。

弟はあんなに積極的に散歩に出かけていたのに、いつしか病気が進んでほぼ寝たきりのような状態になっていった。
動くと息が苦しくなるのだ。

家族が寝る場所は2階だったので、最初はゆっくり上っていた。
そのうち、私がおんぶして上るようになり、
そしていつのころからか、寝室は1階になった。

最初のころは立って、自分でトイレに行くことができた。
けれど徐々に、立つだけで息が上がる、歩くなんてもってのほかで、
1歩でも歩いたら、全力疾走した後のような息苦しさになっていた。

そのうち在宅酸素の機械がきた。

サンソがないと息が苦しいのだ。
親からは、弟は普段から富士山の上にいるようなものだと言われた。

必要な酸素の濃度も年々どんどん濃くなっていった。

私も分別のある高校生になったこともあるし、普段から酸素をしていても息が苦しそうな弟相手に、さすがにつかみ合いの喧嘩はしなくなった。

目は見えないし、息は苦しそうだし、喋るのは遅いし、遅いくせに何度も同じことを言うし、年不相応の子供の知能だし。

短気な私はイラつくことも多かったけど。
まあ、子供っぽくてかわいいっちゃかわいい。
たまにナマイキだけど。

もちろんイライラしてもう知らん!って時はあったけど、なるべく優しくするようにした。

なるべく笑かしてやろうと思った。
弟が笑ったことはしつこいくらいに何度も繰り返した。

ゲームもかわりにやった。今で言うゲーム実況みたいなものだったかもしれない。
なるべく盛り上がるようにテンションを上げたり、
負けたら大げさにガーン!ってやってみたり。

大げさにやってると自分もおもしろかったし、弟が笑えばそれでよしって感じだった。
弟は何度も笑ったが、たまに飽きて、もういい!と言われたりもした。

なんだかんだ言って可愛かった。

母なんかは、弟にはいつまでも子供らしさが残っていて可愛かったのではないかと思う。

(後年、「そら母親は娘より息子の方が可愛いわ!」と言われた。)

もちろん、私たち家族はキツかった。
知能は子供でも身体は高校生男子。背もあったし。
あんなに太っていたのに、ガリガリになっていた。

ほんの少しでも食べすぎると吐いてしまうのだ。
で、吐くとまた息苦しくなって大変だった。
そういう時は、一時的に酸素の量を上げてしばらく様子を見る。

痩せすぎて背骨が出ていたので、ほぼ寝たきりの弟はよくアザが出来ていた。
いわゆる褥瘡(じょくそう)。

お風呂には父と母で入れていたが、毎回必死だった。
当然呼吸は苦しい。

毎日、弟が死ぬかもしれない恐怖に押しつぶされそうだった。

わたしは大学進学のため家を出たが、
片道3時間をかけて、しょっちゅう家に帰った。

一人暮らしの部屋から電話もした。当時はまだガラケーだった。
LINEなんてもちろんなかったから、電話代はどうしていたんだろう。
auの家族間通話無料とかだったかな。

今みたいに、スマホでテレビ電話みたいなのが使えていたら、ずっと家と繋いでいたかもしれない。

いつも、緊急の電話があったらどうしようと怯えながらケータイを開いた。

そうそう、電話をしても、弟は恥ずかしがってか全然喋ってくれない。

母と話している時に、大好きなポケモンを見て(きいて?)笑ってる声が聞こえると安心した。


大学2年の夏休み。
いつものように帰省した。

弟は風邪をこじらせ、念のため入院した。
両親は毎日交代で病室に泊まった。

日に日に両親が疲れていくのがわかった。

まったく、親を困らせやがって。

いつもの1日みたいにして始まって、両親は疲れがたまるけど、
なんだかんだで1日が終わるはずだった。
穏やかな日だったと思うけど、いきなり。

家にいた私は初めてタクシーを呼んだ。

なるべく飛ばしてもらって、病院に着いたときには普段どおりの弟がいて。

なんやねん!って拍子抜けした。


ここからのことはちょっと記憶があやふやだけど、
結局しばらくしたら脈が弱くなって。

よく医療ドラマで心電図がビビビビッて警報を鳴らすけど、緊急を知らせる音がして。

2回かな。心臓マッサージで蘇生しては、またしばらくして、警報がなって。
さすがにもうあかんってなって。

なんべんもしたら、痛いやろし、もう。

魂が抜けるとは昔の人もうまいこと言ったものだと思う。

苦しんでいる弟。
マラソンのゴール前で、ラストスパートで苦しそうだから早くゴールしてほしい気持ちと、終わらないでくれっていう気持ちと。どうしたらいいのかわからなかった。

全速力で駆け抜けて、もがいて、すっと魂が抜けたのがわかった。命が燃えた。

夏の花火の日の頃だった。
駆けつけてくれた伯父さんが涙を浮かべながら、
弟も花火が見えるようになったって言ってくれたのが私は嬉しかった。

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来月は弟の誕生日がある。

毎年、命日よりも、弟の誕生日が近くなると私は普段より泣きっぽくなる。
いきなり感情がこみ上げてくる。

時間を見た時にたまたま誕生日のならびになっているだけでギュッとなって、
なんかつらくなる。
でも毎年のことだから、そういうもんなんだろうと思う。

さいわい?花粉の季節なので、ふいに涙ぐんでも花粉症ってことにできる。
つくづくよくできた弟だと思う。


書きながら、思い出して、涙ぐんで、
休んで、また書いて、泣いて。

一種のセラピーみたいにブログを使った。

父と母に見つからないことを祈る。

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